2010年7月号
インタビュー
どこが悪いか、脳表面の画像で読み取る
アルツハイマー病の早期発見に活用
顔写真

武者 利光 Profile
(むしゃ・としみつ)

(株)脳機能研究所 代表取締役社長
(株)ゆらぎ研究所 代表取締役社長
東京工業大学 名誉教授

聞き手:登坂 和洋 Profile



株式会社脳機能研究所(神奈川県横浜市)は脳電位解析によって人の心を読み取る技術と、脳内ニューロ ン機能異常部位画像化技術開発に取り組むベンチャー企業である。武者利光氏(東京工業大学名誉教授)が、 東京工業大学教授を定年退官した1992年に設立した研究所(株式会社化は1994年2月)で、代表取締役 社長を務める。

同社は喜怒哀楽のような感性状態を定量化して表現する脳電位解析法、さらに、脳皮質の機能活性度を 定量化する解析法を開発した。後者の技術は、1998年から2000年にかけて国立精神神経センターの朝田 隆氏らとの共同研究を通じて開発したもので、老人性アルツハイマー病の早期発見を高感度で行えること が分かっている。このため、同社の開発したシステムを活用してアルツハイマー病の発症を遅らせ、同患 者の増加を抑制することを目的とした臨床応用が始まっている。また、この研究の延長として、脳電位パワー の「ゆらぎ」解析により、脳内ニューロン機能異常状態を脳表面に可視化表現する新技術を開発し、今後の 臨床応用が期待されている。

武者氏は「1/f ゆらぎ」の研究で知られる研究者である。「ゆらぎ」とは予測できない空間的、時間的変化 や動きのこと。「1/f ゆらぎ」は規則正しさと不規則がちょうどいい具合に調和している状態である。スター トは半導体のゆらぎ(雑音)の研究。半導体の中の雑音には4種類あり、そのうちの3つは発生の仕組みが 物理的に解明されていた。しかし、第4の雑音は1925年に報告された後も、その発生のメカニズムが分 からないままだった。この半導体の「1/f ゆらぎ」の研究と、次に取り組んだ高安定水晶時計の示す時間の「1/ f ゆらぎ」の研究が生体のリズムゆらぎの研究に発展し、生体の快適性との関係にたどり着いた。

また武者氏は1977年に1/fゆらぎに関する学際的な国際会議を東京で開催し、それ以後2年ごとにこの 研究会は世界各地で開催されている。武者氏は生体内の情報伝送に1/fゆらぎが重要な働きをしているこ とを発見し、神経軸索内の活動電位の変調を調べている過程で、脳波発生機構に関する逆問題の解法に研 究が広がった。脳機能研究所の研究と事業化を武者氏にお聞きした。

(聞き手・本文構成:登坂和洋)


1931年東京都生まれ;1954年東京大 学理学部物理学科卒業;日本電電公社電 気通信研究所に10年間勤務したのち、 1964年フルブライト交換研究員として Res.Lab., Electronics, MIT(USA)に在 籍、1965年王立工科大学(スウェーデン) 研究員、1966年RCA東京研究所研究員、 1966〜1992年東京工業大学工学部総 合理工学研究科教授、1992〜1994年 東京理科大学教授、1994年(株)脳機能 研究所および(株)ゆらぎ研究所を設立、 代表取締役に就任。

1992 年3 月に東京工業大学を定年退官し、自分のやりたいことを満足で きるまで研究のできる「脳機能研究所」を川崎市高津区の「かながわサイエ ンスパーク」に設立しました(2005 年3 月に川崎区浜川崎に移転し、現在 は、横浜市緑区の東工大横浜ベンチャープラザに入居している)。この自前 の研究所は当時、法人格が無かったので日本人の研究者を集めることがで きず、モスクワ大学の友人に頼んで優秀なロシア人の若手研究者を数人紹 介してもらいました。この研究所で大学時代からの研究を続け、1994 年2 月に、脳電位の発生源の位置を脳波から解読する新しい技術「双極子追跡 法」を完成させました。この技術は、東工大在籍時から開発を行っていた もので、「脳機能解析システムBFA」として商品化しました。また同時期に、 同研究所を株式会社にしました。株式会社化に当たっては、同パークを運 営する株式会社ケイエスピーと株式会社エヌエフ回路設計ブロックの支援 を受けました。同研究所のビジネスはこのシステムの販売と、関連した研 究開発の受託の2 つです。株式会社化した背景には、優秀な人材を獲得す るという目的もありました。

感性状態を喜怒哀楽に分解して数値的に計測

この脳機能解析システムBFA は私の東工大時代の研究成果に基づいた技 術開発ですが、その後、脳機能研究所独自の技術開発期に入りました。当 時、突然死、過労死などが社会的に問題になっており、精神的なストレス をモニターするアルゴリズムの開発に力を注ぎました。その結果、開発 したのが心の状態を数値的に計測できる「感性スペクトル解析法(Emotion Spectrum Analysis Method;ESAM)=イーサム」という新技術です。ESAM は感性状態を喜怒哀楽、すなわち、「ストレス、緊張度」「喜び、満足感」「悲 しみ、落ち込み」「リラックス」の4 つの独立な基本成分に分解して、それ ぞれのレベル変化を秒単位で表示します。

赤、緑、青の3 原色の組み合わせでどんな色でも表現できるのと同様に、 感性状態は喜怒哀楽の4 基本状態の重ね合わせでほぼ表現できることを、 ESAM は明らかにしました。この技術は精神的ストレスのモニター、精神 集中度・意識レベルのモニター、性格判定、睡眠の質の判定といった心の 研究だけでなく、産業分野でも盛んに応用されています。具体的には「商 品デザインの評価」「学習環境の評価」「都市環境の評価」「味覚の満足度の定 量化」「ビジネス・コンサルティング」などです。ESAM の装置はベーシック モデルが1 台350 万円、新しい感性要素を導入できるフルセットが600 万 円で、これまでに合わせて約200 セット販売しています。装置販売のほか、 脳波の「感性スペクトル解析」の受託も行っています。受託の場合、被験者 は1 人当たり30 万円ですが、統計的に有意差を求めるのには最低10 人の 被験者は必要です。

最近ではブリヂストンから、タイヤとゴルフクラブの新製品の性能解析 を受託しました。タイヤの場合、一般のドライバー15 人に新製品のタイヤ の車と、従来のタイヤの車をテストコース内でそれぞれ8 周試乗してもら い、脳波を測りました。頭部10 カ所の脳波を測定し、そこで記録された信 号パタンを相関分析し、「リラックス」「楽しさ」「ストレス」の3つのレベル を算出しました。

シャープからは新しいオーディオシステムである「ワンビットオーディ オ」の性能評価を受託しました。針で音を再生するかつてのLP レコードは 耳に聴こえない高い周波数の音まで再生することができます。しかし、人 間には20 キロヘルツくらいの音までしか聴こえないので、CD(コンパクト ディスク)は可聴周波数だけは再現しますが、聴こえない部分は取り除い ています。そしてマニアの間ではLP はCD よりも音がきれいであると言わ れています。こうしたことから、オーディオ機器が「聴こえない音」を流す のと、流さないのとでは聴く人の快適さにどう影響するかを解析してほし い、というのが同社の依頼でした。

その結果、人間に聴こえない音も再生する方が、聴く人の満足感が大き いことが分かりました。これを基に、同社はこのシステムを同社のテレビ に搭載しています。

公的機関との共同研究にコーディネーターの存在

次に、東京医科歯科大学、慶應義塾大学、国立精神・神経センター武蔵 病院、民間病院等の協力を得てアルツハイマー病の早期発見を可能とする 新技術「脳機能活性度測定システム」DIMENSION を開発しました。この経 過をもう少し詳しく説明しましょう。

脳機能研究所は、その利用を外部の研究者に開放していたので、多くの 研究者たちが利用しにきました。東京医科歯科大学神経科の大久保善朗先 生および寺崎太洋先生との共同研究から、認知症患者ではα 波の双極子度 が正常者に比べて低いことが分かりましたので、この原因の究明に取り掛 かりました。

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの学生も集団でやってくるようになり ました。その中の1 人、原淳子さんという院生が非常に熱心で、彼女の学 位論文を指導することになりました。テーマとして取り組んでもらったの は、アルツハイマー患者の脳波の異常性がなぜ起こるかを脳のコンピュー ターシミュレーションによって徹底的に調べること。専門的に言うと、大 脳皮質の3 次元モデルを用いたニューロン活動と脳波との関係に関する詳 細な計算機シミュレーションです。そして、その原因を解明しました。ま た臨床的には総泉病院院長の高野喜久雄先生(当時)の協力で臨床治験が蓄 積しました。

これらの研究成果を発展させて開発したのが、脳内のシナプス・ニュー ロン機能低下度を量的に推定する「DIMENSION(Diagnosis Method of Neuronal Dysfunction)」です。1998 年から2000 年にかけての国立精神・ 神経センター武蔵病院の朝田隆先生(現在は筑波大学教授)・松田博史先生 (現在は埼玉医科大学教授)のグループとの2 年にわたる共同研究で約120 名の正常者およびアルツハイマー病患者について、MRI、SPECT などを用 いて行った詳細な診断結果と脳電位との比較から、DIMENSION はアルツ ハイマー病の診断に対する高感度な補助手段として利用できることが証明 されました。

この武蔵病院との共同研究には“コーディネーター” がいました。われわ れが1997 年に大阪商工会議所の「グローバル・ベンチャー・フォーラム」 という国際ハイテク商談会に出展したときのこと。厚生省(当時)から内閣 官房に出向していた宇野裕氏がわれわれの展示ブースにたまたま見えて、 「これは重要な研究だから、公的な機関と共同研究をした方がいい」との助 言をいただくとともに、武蔵病院の宇野正威先生と結び付けていただきま した。この支援には本当に助かりました。

共同研究で効果を確認

われわれは、アルツハイマーに効果がありそうだということで民間病院 と共同研究を行っていましたが、国の機関と共同研究ができたことで、エ ビデンスの裏付けのあるデータベースが得られ、これ以後の技術発展に非 常に役立ち、プロジェクトは大きく進展しました。

さらに川崎市の後押しにより始まった聖マリアンナ医科大学の山口 登先生のグループとの共同研究によると、問診で高得点が得られても DIMENSION の評価が低い場合には6 カ月後にはアルツハイマー病の症状が 進行し、問診の得点も低下することが確認されました。

これと並行して、木村クリニック(木村伸院長)、株式会社芸術造形研究 所および東北福祉大学感性福祉研究所との共同研究により、芸術造形研究 所で開発した臨床芸術が、認知症の脳リハビリとして著しい効果のあるこ とがDIMENSION によって確認されました。また木村 クリニックおよび産業技術総合研究所との共同研究 では、同所の柴田崇徳氏が開発したロボット「パロ」 と遊ぶことが脳リハビリ機能を有することなども確 認されました。また脳機能活性化を目的としたサプ リメントの効果測定や頭脳的疲労の計測にも用いら れています。

DIMENSIONの端末は1台約500万円。2000年に 倉敷平成病院に納入したのが最初で、すでに1万例を 超える解析結果が累積しています。これまでに販売し たのは15台ほど。この検査はいたって簡単です。わ れわれが開発した21個の電極が付いたヘルメット(エ レクトロヘルメット)をかぶり、5分間目を閉じてじっとしているだけです。 記録したデータをインターネットを経由して当社のサーバーに送り、自動 解析した結果を即座に送り返すという方式です。「装置売り」よりも解析サー ビスをビジネスにした方が、アルゴリズムの改善効果を逐次利用していた だけますし、ユーザーの利用状態が把握できるという利点があります。初 めはフロッピーディスクでデータを送ってもらい、手作業で解析をしてい ましたが、このような自動化システムが完成したのは今から4年前です。

放射線を用いない低廉な脳機能画像

DIMENSION はニューロン機能の全体的な低下を推定しますが、脳のど の位置の機能が低下しているかという知見は与えません。つまり鑑別診断 の支援は行いません。そこで脳波解析をもう1 歩進めて、どこが悪いかを 画像的に表示するL-DIMENSIONという新技術を開発しました。これは脳波 の局所的なゆらぎ情報を利用しています。このLというのはLocal という意 味で付けたのですが、現在ではこの新技術をNeuronal Activity Topography 略してNAT(ナット)という名で呼んでいます。

アルツハイマー患者については通常はSPECT(Single-Photon Emission CT)による検査が行われます。ガンマ線を放射する物質を血液中に入れて、 それから放射されるガンマ線の強さから脳内の血流量の変化を画像化しま すが、この結果とNAT によるニューロン機能異常部位とは一致することが 多いことが分かりました。NAT という技術は、ニューロン活動が異常に活 発になっているのか不活発になっているのかを区別して脳表面に表示する 新しい脳機能画像法です。非常に低価格で全く放射線を用いずにこのよう な表示ができるのが特徴です。富山大学医学部脳神経外科の遠藤俊郎教授 および富山病院の柴田孝医師との脳梗塞の治療経過のNATによる追跡研究 で興味ある結果が次々と得られています。このシステムもインターネット 経由で解析を行っています。

また、DIMENSIONの開発には川崎市から物心両面の支援を受けていま す。2006 年2 月28 日に川崎産業振興会館で島田晴雄慶應義塾大学教授・ 川崎市市政アドバイザー(現在は千葉商科大学長)、長谷川和夫聖マリアン ナ医大名誉理事長とともに市民に対してDIMENSION による認知症予防の 可能性を訴えるイベントがあり、阿部孝夫川崎市長からこの技術を用いて 認知症予防の先進自治体を目指す、というあいさつがありました。

東工大、日本光電と開発・事業化目指す

2008 年3 月、日本医科大学老人病研究所(川崎市)に委託された文部科学省のプロジェクト「街ぐるみ認知症相談センター」に参 加して、DIMENSION による脳機能測定サービスを開始し ました。また、東北福祉大学では仙台市の後援により、認 知症予防を中心に新しい健康増進モデルを学ぶ「生涯現 役エキスパート講座」を本年6 月から開講し、健康維持と DIMENSION を用いた脳機能のモニターを始めています。6 月15 日に川崎市高津区で開かれた川崎市主催の「認知症 フォーラム2010 〜早期発見と地域ケア〜」では、地域での 認知症ケアの事例として、川崎市と仙台市の取り組みが報 告されました。

さらに、DIMENSION の拡張技術として開発されたNAT によって、MCI(Mild Cognitive Impairmentの略で、認知機 能の低下は見られないが徐々に脳機能が低下している状態) とアルツハイマー病との識別、さらにMCI と「うつ病」との 識別に成功しました。また、脳梗塞の治療後の経過観察に も試験的に利用されています。NAT は、現在行われている SPECT に匹敵する機能を持っていると期待が寄せられてい ますが、これは今後の研究課題です。

NAT に関しては、2008 年10 月、東京工業大学大学院総合理工学研究科 の小杉幸夫教授との共同研究「低価格脳機能異常部位表示装置の開発」が、 科学技術振興機構(JST)の先端計測分析技術・機器開発事業の「機器開発プ ログラム」に採択され、事業化を目指しています。間もなく始まるビジネ ス化に際しては日本光電工業株式会社が強力なパートナーになる予定で、 さらにいろいろな機能を加えて商品化が行われる予定です。